Donの世迷い言                    

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 メールマガジン発行                                           4月7日
 2010年4月7日より、「まぐまぐ」からメールマガジンを発行しています
「DONのウェルネス通信」 



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 「お楽しみコンサート」が終わって                                   2月18日
 おかげさまで、これで2009年度の築地元気ぷろじぇくとは完結と言っていいでしょう。
子どもたちに喜んでもらえる何かが、2010年度にも出来るといいなあと思います。
今日も感じたのですが、子どもたちひとりひとりの状況が大きく異なり、
全ての子どもたちに等しく喜んでもらおうとしても無理があります。
また、それを追い求めて叶わず、ならいっそのことやめてしまえ、というような
Bestを追ってWorstに至るようなことは選びたくありません。
”ちょっとbetter”を願って、コスモス会の方々と相談しながら、先を考えたいです。
一方、待合室待機やおしゃべり会などへの継続的な関わりこそ、一番の基本なのでしょう。
ぼくもできるだけおしゃべり会には出るようにしようと思います。

 ピアニストの深井さんは最近あるところで、モーツアルトの23番の協奏曲を演奏されました。
この曲にまつわるエピソードを紹介させてください。
大学時代のオーケストラの仲間がふたり、自殺しています。
そのうちのひとりは都立立川高校の出身者でした。
彼が亡くなった後、立川高校のOBと大学のオーケストラの有志とが集って
追悼コンサートを開きました。
その中で23番のコンチェルトの第2楽章を演奏しました。
そのふたりのような人生の閉じ方をする人が一人でも減って欲しい、という願いは
僕の仕事の原点です。ところが現実には、毎年3万人を越える人たちが彼らの後に続いています。
「訓練された身近な相談相手」の普及がその状況の改善につながり、
FQカウンセラーがその一翼を担っていくことを願っています。


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 「コスモス会のクリスマス会」準備の裏話                                12月9日
 病院の12階から台車に乗せたグッズをゴロゴロゴロ押して、時事通信社のビルまでは
コスモス会の方と運んできましたが、その方は他の全てを仕切らねばならないので、
僕が台車を押してビルに入ろうとしたら、「荷物は裏から」ということでゴロゴロゴロ。
裏口のオジサンに胡散臭そうに見られて、
オ:「搬入は地下駐車場からってそこ書いてあるでしょ」
D:「あっそうですか」
ゴロゴロゴゴッゴッゴッゴッゴ---☆ (地下に下りる坂道でブレーキが効かない!!!)
地下のオジサンから
オ:「業者名を書いて、名札つけて」「?」「出るのは何時?」
D:「? かなり後です」
オ:「搬入じゃないの?」
D:「はい、いえ、はい」
オ:「?」
D:「宴会で使う資材です」
オ:「業者さんじゃないんですね?」
D:「?」
オ:「済みません。だったら名札、いらないです」
D:「助かります。この名札、必ず付けたまま帰宅してしまいそうです。自信ありましたから。」
オ:「そこの右から入って、エレベータがありますから」
D:「ありがとうございます。」
コロコロコロ。
オ:「そっちじゃなくて、ここを右です!」
・・・・・数時間後
予想通り、パーティ会場で作った別の名札を付けたまま、帰宅してしまった!


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 Family Qualityを高めるということ                                 11月19日
 今日の新聞では、学生・生徒の自殺が増えている(昨年は972人)という悲しいニュースが
報じられていました。がんセンターでは何としてでも生き抜こう、という”命がけで生きていこう”
とする営みが続けられている一方で、子どもたちが自ら命を絶つという真逆(に見える)の行為が
増加しているというのです。政府は対策として「夜間や休日など子供がいつでも相談できる体制の
構築」の必要性を挙げているそうです。

それは悪いことではありませんが、あくまで代替手段あるいはオータナティブです。
 基本のキは家族や地域が子どもを守り育てるという機能を発揮することではないでしょうか。
つまりこれらのケースのほとんどはFamily Qualityを高めることで防げると僕は信じています。
また病を治療する「(家族)療法」ではなく、家族の自助力、自己成長力を強化するという
FQの考え方がもっと活かされていくようになってほしいと願います。


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 「ありがとっ」のご両親に特別ゲストになっていただいたのは                    11月9日
 ISMAJのフォーラムで僕が伝えたかったのは家族の丈夫さ(堅い言葉で言えばストレス耐性)は
どのように生まれ、育つのだろうかという問いかけでした。
病気、しかも重篤な病が家族の誰にとってもストレッサーであり、それによって崩壊する家族もあり、
一方でたくましく、「発達する」家族もあります。

 さて、フォーラム準備をしていた時 (なんとフォーラムの前々日!)、
「ありがとっ」のことを思いだし、頁をめくっているうちに「これを使いたい」という頁に出会いました。
著者とお母様が両手を合わせて「人」の文字を作っている向こうにピラミッドが見えている写真と
「ただいま」という文言が含まれている文。
すぐに使用許可をお願いするために電話を掛けましたが、繋がったのは翌日朝でした。
もちろん使用許可はすぐに頂戴できましたが、お話を進めるうちに、
お母様はバスの予約がとれたら「明日、伺います」と仰り、電話を切ってしばらくすると
「新宿まで席が取れたので主人とふたりで参ります」ということになりました。
 嬉しかったですね。
 それに驚きました。
お二人の行動は、前々節の冒頭の問いかけに対する答えでもあります。
すなわち、家族ってこうして発達していくんだ、と思い知らされました。
たまたま、フォーラムでの僕の話の始めに、経済産業省の提唱する「社会人基礎力」というのを
ご紹介したのですが、その中に「前に踏み出す力」というのが含まれています。
このご夫妻は、僕からのオファー(と言ってもわざわざ伊那から新宿までお出かけくださるよう
お願いしたのではないですが)に対して、ズンズンと前に踏み出されたのです。
別の言葉で表現すると、自発性とかコミットメントとも言えるでしょう。
 FQカウンセラー養成講座でコミットメントというのをご紹介しましたが、これは難しい概念です。
先日NHKの経済番組でもこの言葉が取り上げれていたのですが
そこでは「ある種の、後に引けない約束をすることで、相手の行動を引き出す」というような説明が
なされていました。例えば、下請け会社が設備投資をするという約束をすることで
発注先に継続的な注文をさせようとする、というように。
しかし、FQではこのように相手を操作するという意味をコミットメントに含めていません。
もっとシンプルに、「私は決して逃げないよ」という覚悟に裏打ちされた「万障繰り合わせよう」
という意志のようなものとして理解したいと思います。
 家族のメンバーが「(逃げずに)必ず’そこに存在する」という期待と信頼は、「家内安全」の
必須要件でしょう。
”お父さんは帰ってくるのだろうか?”とか
”私が病気になったらお母さんは逃げ出しちゃうかも知れない”という不安がなく、
”必ず帰ってくる”、”いざとなれば最後まで見放さない”という信頼感がFQを高めると思います。
「息子のことが話題になるなら、万障繰り合わせてその場に駆けつけよう」という姿勢を感じて、
感動した秋の日でした。 


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 「私たちは自分の行動を選ぶ」                                  11月7日
 松本でストレスや自殺について講演をしての帰路、中野行きスーパーあずさ28号は
日野春駅で止まってしまいました。
下り電車で人身事故発生のため上下線ともに運転見合を見合わせる、
という初期の車内アナウンスが何度も繰り返された後、かなり時間が経ってから、
「ただ今、お客様を救出作業中です。復旧の目途は立っていません。」
僕の後方の座席の乗客の会話が静かな車内に響きます。
「んとにもう、ひどい話だね。救出なんかしなくてもいいのに。」
「だいたい、前政権の政治のせいだよね。」

<仮にその人が自分で線路に立ち入ったとして>

 そういう人をお客様と呼ぶのが最適であるかどうか、という問題。
自殺を企てた人を救出する必要があるのか、という問題。
人が自殺するのは政治のせいだ、ということがあり得るのかどうかという問題。
色々考えました。
 3つの権利、すなわち生きる権利と死ぬ権利、そして支払いに見合ったサービス(この場合は安全
且つ定時に目的地に運んでもらうというサービス)を受け取る権利の優先順位のことも考えました。
人に語れるほどのことは考えていません。せいぜい独り言です。

 二つだけ確かなことは、まず90分も電車が遅れたことは頗る困ったことであり、
次に「あんたがそれをすると、こういう結果を招いて、とても困っちゃうんだよ。」という
フィードバックを伝えられない不愉快さが残ったということです。
「あずさ号のターミナルは中野ではなく新宿でしょ?」とのご指摘はごもっとも。
11月7日は新宿駅の工事のため、特別に中野がターミナルになりました。
そしてその人は竜王駅付近の線路上をターミナルに選んだのです。
そう、選んだのです。
もし自ら線路に立ち入ったとするなら、それは自分で選んだことなのです。
そして、JRはその人を救出しようとして、電車の運転見合わせを選んだのです。
さらに、僕たち乗客は、かなりおとなしく、車内で待つことを選んだのです。

原則:私たちは自分の行動を選ぶ。


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